3280265 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

人生朝露

人生朝露

荘子と太一と伊勢神宮。

荘子です。
荘子です。

御木曳 一日神領民の奉曳車。 おんべ鯛奉納祭り 太一御用の幟。
以前に、伊勢の注連縄の桃符の話をしたんですが、今はちょうど伊勢神宮の遷宮がありまして、伊勢の話題を耳にする機会が増えております。左側の画像が御木曳(おきひき)の、右が篠島という島の「おんべ鯛祭り」の画像です。左は材木を、右は鯛を伊勢神宮に奉納するものですが、両方とも「太一」という幟が掲げられています。

参照:Wikipedia 御木曳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9C%A8%E6%9B%B3

おんべ鯛奉納祭|篠島の祭礼
http://www.shinojima-matsuri.jp/october.html

伊雑宮(いざわのみや) 御田植祭 太一。
こちらは、伊勢神宮の別宮・伊雑宮の御田植祭というお祭りの画像。
こちらにも「太一」という文字があります。

参照:泥まみれ、下帯姿で竹取神事 伊勢神宮別宮で御田植祭
http://www.asahi.com/national/update/0624/NGY201306240015.html

これらは「天照大神(アマテラスオオミカミ)」を指して「太一」という文字を当てていると説明されます。実はこの「太一」という言葉は『荘子』に説明がある用語です。

荘子 Zhuangzi。
『以本為精、以物為粗、以有積為不足、澹然獨與神明居、古之道術有在於是者。關尹、老聃聞其風而悦之。建之以常無有、主之以太一、以濡弱謙下為表、以空虚不毀萬物為實。
關尹曰「在己無居、形物自著。其動若水、其靜若鏡、其應若響。芴乎若亡、寂乎若清、同焉者和、得焉者失。未嘗先人而常隨人。」 』(『荘子』天下 第三十三)
→形なき本根をもって精緻なるものとし、形ある物をもって粗雑なるものとする。富の充実を不足とし、じっとしていながら独り神明と共にある。古の道術には、こういった立場にある者がいた。関尹子(かんいんし)や老聃(ろうたん)はその風を聞いてこれを悦び、常有・常無という観念を打ちたてて、【太一】を主とした。柔弱にして謙下を表とし、自己を空虚として万物を傷つけず内なる徳を守ることとした。
 関尹曰く「己を無に置けば、外物によって自ずから表れるものである。その動くこと水のごとく、その静かなること鏡のごとく、その応じること響きのごとし。ぼんやりとして存在しないかのようであり、清らかな水のようにひっそりとたたずむ。調和するものには同じくするが、得ようとすれば失われる。人より先に進むことやなく、常に人の歩みに従がってゆく。」

『荘子』には太一という言葉が二度記されておりまして、「古の道術の主としたものである」との説明書きがあるのは、『荘子』のエンドロール・天下篇です。

今から20年前の1993年、湖北省荊門市・郭店一号楚墓という遺跡から、郭店楚墓竹簡(郭店楚簡)という竹簡が発見されました。放射性炭素による測定ではちょうど荘子が生きていたとされる紀元前4世紀くらいのものではないかとされているようです。『老子』の古いバージョンのものもありまして、他にも『太一生水』という竹簡も見つかっています。

『太一生水』(湖北省博物館)。
『太一生水、水反輔太一、是以成天。天反輔太一、是以成地。天地复相輔也、是以成神明。神明复相輔也、是以成阴阳。阴阳复相輔也、是以成四时。四时复相輔也、是以成凔热。凔热复相輔也、是以成湿燥。湿燥复相輔也、成歳而止。故歳者、湿燥之所生也。湿燥者、凔热之所生也。凔热者、四时之所生也。四时者、阴阳之所生也。阴阳者、神明之所生也。神明者、天地之所生也。天地者、太一之所生也。是故、太一藏於水、行於时。周而又始、以己为万物母。(郭店楚墓竹簡『太一生水』より)』
→太一が水を生じ、水は太一に反輔し、是を以て天となる。天は太一に反輔し、是を以て地となる。天地はまた相輔する。是を以て神明となる。神明また相輔して、是を以て陰陽となる。陰陽また相輔して、是を以て四季となる。四季はまた相輔する。是を以て凔熱となる。凔熱はまた相輔する。是を以て湿燥となり、湿燥はまた相輔して、歳となり止まる。故に歳は湿燥の生じるところである。凔熱は四季の生じるところである。四季は陰陽の生じるところである。陰陽は神明の生じるところである。神明は天地の生じるところである。天地は太一の生じるところである。これ故に太一は水を蔵し、時において行く。周してまた始まり、以て万物の母となる。

太一から水が生まれて→天→地→神明→陰陽→四季(四時)→凔熱→湿燥→歳という順で、それぞれが反輔(反えりて輔ける)と相輔(相いに輔ける)を繰り返しながら生じ、そのサイクルが「万物の母」を示すという流れになっています。「太一」から「水」を始点とする宇宙創世論で、「万物の母」となる「太一」は、伊勢神宮におけるアマテラスの位置づけに相応します。

参照:Wikipedia 太一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%B8%80

『日本書紀』の元ネタ、『淮南子』の天文訓では太一はこうなっています。
『淮南子』。
『太微者、太一之庭也。紫宮者、太一之居也。軒轅者、帝妃之舍也、咸池者、水魚之囿也。天阿者、群神之闕也。四宮者、所以守司賞罰。太微者、主朱雀、紫宮執斗而左旋、日行一度、以周於天、日冬至峻狼之山、日移一度、凡行百八十二度八分度之五、而夏至牛首之山、反覆三百六十五度四分度之一而成一歲。(『淮南子』天文訓)』
→太微は、【太一】の庭であり、紫宮は、【太一】の住まいである。軒轅は、帝妃の舍であり、咸池は、水魚を養う園である。天阿は、群神の関である。この四宮は、賞罰を司り是を守る門である。太微は、朱雀を主とし、紫宮は北斗を手に執って左に旋回する。一日に一巡し、天を周行して冬至の日に峻狼山に至る。日に一度移動して、おおよそ半年で182と8分の5度を巡り、夏至の日に牛首山に至る。365と4分の1度の運行により一年という歳月が経過する。

・・・天文訓のこの部分は、北斗七星を観測して、一年を計算するというものでして、太微、紫宮という太一の場所を軸としています。この場合の「太一」を「太陽神」としてアマテラスであるとすると、齟齬が生じます。

おそらく、ですが、
『古事記』。
『臣安萬侶言。夫混元既凝。氣象未效。無名無爲。誰知其形。然乾坤初分。參神作造化之首。陰陽斯開。二靈爲群品之祖。(『古事記』上卷 幷序)』
→臣、安万侶が申し上げます。混沌とした元素が固まり、氣のありさまが未だとらえられない頃、無名にして無為であり、誰もその形を知りませんでした。その後に乾坤(天地)が初めて分かたれ、三神が創造の魁となり、陰陽が分かたれて、イザナギ・イザナミの二霊が諸々の祖となりました。

『天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。訓高下天云阿麻。下效此。次高御產巢日神。次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。次國稚如浮脂而、久羅下那州多陀用幣流之時、如葦牙因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神。次天之常立神。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。上件五柱神者、別天神。(『古事記』神代記)』
→天地が開闢したとき、高天原でお成りになった神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、次に神産巣日神 (カミムスヒノカミ)でありました。この三柱の神は、独りでお成りになる神でしたので、身を隠し窺い知ることはできません。次に国土が幼く脂のように浮かび、クラゲのように漂っているときに、葦が芽吹くように勢いよく生まれた神の名は宇摩志阿斯訶備比古遲神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)があり、次に天之常立神(アメノトコタチノカミ)でありました。この二柱の神も独りでお成りになる神なので、身を隠し窺い知ることはできません。上記五柱の神は別天の神であります。

参照:Wikipedia 天之御中主神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E

四方拝と北斗七星。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005172/

北極星。
・・・『古事記』の冒頭、アマテラスやイザナギ・イザナミ以前に最初に高天原に現れた、「別天の神」としている造化三神の「天之御中主神((アメノミナカヌシノカミ)」とアマテラスを習合させたのだろうと思います。名前だけで具体的な記述のない「天之御中主」、つまり北極星「太一」ですね。この指摘は、一部了承しかねるところもありますが、吉野裕子さんの『隠された神々』等に詳しく載っています。『隠された神々』では、伊勢神宮の内宮は北極星を祀り、外宮は北斗七星を象徴化しているという論証をなさっておいででして、興味深いです。

天武天皇(631~686)。
記紀の編纂、伊勢神宮の設置、陰陽寮の設立、天文台の設置等々、天武天皇の頃に、明らかに「道教への依存」とも言うべき傾向があります。これが端緒となっていることに疑いはないんですが、伊勢での「太一」の使用は、おそらく中世以降の復古神道や伊勢神道の頃に定着したものであろうと思います。

荘子 Zhuangzi。
『小夫之知、離苞苴竿牘、敝精神乎蹇淺、而欲兼濟道物、太一形虛。若是者、迷惑於宇宙、形累不知太初。彼至人者、歸精神乎無始、而甘冥乎無何有之鄉。水流乎無形、發泄乎太清。悲哉乎!汝為知在毫毛、而不知大寧!(『荘子』列御寇 第三十二)』
→小さな知識に偏る者は、貢物や書面のやりとりから離れられず、精神を浅はかなことで疲弊させている。しかも、道と物の両方を抱えながら【太一】形虚の境地まで達しようとしている。このような者は、無限に広がる宇宙の中で惑うばかりで、始まりを知るには至るまい。かの至人と呼ばれる人は、精神を無始に帰し、無可有の郷に遊ばせる。それは形の無い水流のようであり、限りない清らかさを湧き出ださせているかのようでもある。悲しいかな、あなたは毛の先のような知にとらわれて、大いなる安寧を知りえない。

今日はこの辺で。


© Rakuten Group, Inc.